杉並区馬橋の歴史


馬橋の歴史と地名 明治時代の馬橋

馬橋弁天池

◆戸数56戸 312人 耕地67町1反歩余

 高円寺南3丁目の青梅街道よりの地域は、旧馬橋村字本村、宇鷹っ鶴に4軒の農家がありました。本村には、代々馬橋村の名主役を勤めていた大谷家の屋敷があり、3町歩(3ヘクタール)を越える広大な屋敷の南面 に長屋門、その両側に18本の大ケヤキが立ち並んで、威厳を誇っていました。


 屋敷の北辺(現3丁目12番5号付近)に10坪程の池があり、西岸の檜の大木の下から、手が切れるような冷たい清水がこんこんと湧き出て、日照りがいくら続いても、水は枯れることがなかったといわれます。岸辺に弁天様を祀った小さな祠があり、弁天池と呼ばれて、雨乞いにはこの池の水が使われました。池の周囲はボサ(茅、すすき、笹、雑草の交わり)が茫々と生え、蛇が沢山いるので、一人では怖くて行けなかったそうです。


 弁天祠はのちに馬橋稲荷神社の水神社に合祀され、また、池畔にあった「弁財天」の石碑も、戦後池が埋められていたとき水神社の社前に移されました。